神戸高専剣道実技拒否事件
こちら、信教の自由とやらをかさに着たらなんでもやりたい放題という事例を示す、とんでも判決のひとつです。
神戸高専剣道実技拒否事件(こうべこうせんけんどうじつぎきょひじけん)とは、公立学校の学生が、自己の宗教的信条に反するという理由で、必修科目である剣道の履修を拒否したため留年(原級留置)処分となり、更に翌年度も原級留置処分を受けたために、学則にしたがい学校長により退学処分を受けたところ、当該処分が違法であるとして取消しを求めた行政訴訟(抗告訴訟)である。学校教育における信教の自由の保障が争われ、憲法学上著名な判例のひとつであると共に、裁量統制を巡る重要な判例のひとつとして行政法学上も著名である。
1990年に神戸市立工業高等専門学校に入学した学生には、「エホバの証人」の信者5名がいた。この年に同校は新校舎に移転したことにともない、体育科目の一部として格技である剣道の科目を開講した。この科目に対して5名は、彼らの信仰するところの聖書が説く「彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない」という原則と調和しないと主張し、剣道の履修を拒否した。彼らもただ授業を拒否しただけでなく、病気で体育が出来ない学生のように授業を見学した上でレポートの提出をもって授業参加と認めるように体育教師とかけあったが、認められなかった。そのため、5名の信者が体育の単位を修得できず、同校内規により第1学年に原級留置となった。
翌年、信者5名のうち3名は進級の基準となる点数(55点)を得たため第2学年に進級出来たが、1名は自主退学、もう1名(原告)は前年と同様の経緯をたどったため、再び第1学年に原級留置とされた。同校の学則は2年連続して原級留置の場合は退学を命ずることができるという内規があり、その内規により退学処分を命じられた。
裁判の焦点
原告となった元学生は、1990年度の進級拒否、1991年度の進級拒否・退学についてそれぞれ執行停止の申し立て(仮処分申請を含む)を行い、また処分取り消し訴訟を提起するなどの法的措置をした。そのうち執行停止の申し立てはそれぞれ神戸地裁と大阪高裁で却下された。その後で、学校側の一連の学生に対する違法性の有無について争われることになった。なお下記が双方の主張であった。
原告(元学生)
必修の体育科目の一部である剣道の授業を拒否した学生に対して、学校側はレポート提出等の代替措置を一切認めず欠席扱いとし、最終的には退学とした学校側の措置は裁量権の逸脱である。
学校側による剣道の履修の強要は、日本国憲法が保障する信教と良心の自由を侵害する行為である。
他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対し代替措置が行われている。また高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとはいえない。
被告(学校側)
学校入学時の募集要項に必修科目の事が記載していたはずであり、単位として取得できなければどのような措置になるかが周知されていたといえる。そのため履修拒否することは最初から予期していたはずだ。
原告が主張する代替措置を学校が認めたら、特定の宗教の信仰を援助支援したことになり、日本国憲法20条3項の政教分離に反することになる。
信教の自由による行為が常にその自由が保障されるというものではない。信教の自由を制限して得られる公共的利益の方が学校運営上必要である。
高裁及び最高裁の判決
第一審
1審の神戸地裁は学校側の主張を認め、原告の請求を棄却した。これは宗教的信条が「加持祈祷事件」(最高裁昭和38年5月15日)の判決で示された、「信教の自由の保障する限界を逸脱し」かつ「著しく反社会的なものである」であれば、法的保護を与えることが出来ないとした判例を基にしたものであった。
控訴審・上告審
しかし、大阪高裁及び最高裁は、地裁の判決を破棄し、学校側による一連の措置は裁量権の逸脱であり違憲違法なものであったと認定し原告の主張を認めた。最高裁第2小法廷が1996年3月8日に全員一致で出した判決文の主旨によれば、『他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対し代替措置が行われている』とし、『高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、他の体育科目による代替的方法によってこれを行うことも性質上可能である』とした。
一連の学校側の措置については、『信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなかったが、学生の信仰の自由に対して配慮しない結果となり、原級留置処分の決定も退学処分の選択も社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない』として、学校側の処分取り消しを決定した。
なお学校側が主張した学生の行為を認めたら日本国憲法20条3項の政教分離に反するか否かであるが、『代替措置を講じることは特定の宗教に対する援助をするわけではない』として、特定宗教の援助にはあたらないとした。
最高裁判決後
最高裁判決の翌月(1996年4月)、原告の元学生は第2学年に復学している。すでに21歳となっていた元学生に対して、学校側からは第4学年へ編入する提案もあったが、元学生はこれを断り、取り消された退学処分の時点(第1学年末)に対応する学年に復学することを選択した。
信教の自由
エホバの証人は、統治体の出す文書を絶対的基準として細部にまで忠実に従うため、教義が一般的な宗教とは異なることがある。そのため社会とのかかわりで生じた摩擦をめぐり、教徒が起こした裁判は他にも存在し、著名なものとしてエホバの証人輸血拒否事件などがある。
学校教育における宗教的中立性は、信教の自由と対立することがある。この事件はそれを過度に強調し信仰の自由が抑圧された例とされる。
完全にどうかと思う原告の主張と判決ですね。
元々の地裁の判決でいいじゃんと。
高裁と最高裁は何を考えてるんですかね。
別に学校側は来てくれと言ってるわけでないし、嫌ならうちに来なきゃいい、という当たり前のことを言ってるだけなのに、俺は宗教でこうだから、学校側がルールを変えろと主張するとか・・・。
こんなの許してたらその内、自堕落教とかできて、教義で働かなくても食っていけると示してるから、俺は働かないが国が3食保障しろ、信教の自由だ、とか言い出しますよね。
日本は一応文明国を自負するなら、憲法改正して信教の自由は当然廃止。
むしろ、さっさと宗教の禁止を明示して欲しいものです。
こうちゃん
こうちゃん
これをとんでも判例で片付けるとは、ちょっとお粗末じゃないか?ちゃんと憲法を理解しているのか甚だ疑問だが、、、
返信削除とりあえず反論しとくわ。
① 「嫌なら来るな」で片づけられない理由
教育は公共財であり、選択の自由が完全でない。憲法26条により、国民には「ひとしく教育を受ける権利」がある。公立学校や国立高専は、この権利を具体化する装置。だから「合わないなら辞めろ」は事実上「教育を諦めろ」と同義で、憲法上保障された権利を弱者から奪うことになる。教育機関が公共性を持つ以上、そこには公平性・合理性のある配慮義務が伴うのは当然。
② 宗教の自由は「無制限」ではないが、核心部分は強く守られる
日本国憲法20条は、信教の自由を思想良心の自由と同様、最も強い保護を与えている。
エホバの証人の剣道拒否は、偶発的な気分ではなく、教義の中心にかかわる行為(偶像崇拝・武力拒否)なので、国家がこれを侵害する場合には「厳格な審査基準」で正当化しなければならない。
③ 学校側に過剰な負担を強いたか?
判決は「剣道をやらなくても体育の教育目的は達成できる」「代替措置は合理的に可能」と判断している。
→ つまり、「学校の教育目的」を壊さずに両立できる余地があるなら、それを検討せず処分したことが裁量権逸脱とされた。
ここ重要。学校に剣道授業を廃止しろとは言っていないこと。原告が求めたのは「剣道の代わりにレポートや別科目で単位認定してほしい」という限定的要求。
④お前の「自堕落教」論の欠陥
返信削除憲法上、信教の自由の濫用は認められない。「公共の福祉」に反する場合は制約可能。
「働かない権利」を教義にするケースは、宗教ではなく偽装・詐欺の問題であり、現行法で十分対応できる。
判決が認めたのは「極めて真摯で、社会に害を及ぼさない宗教上の信念」に限定されている。この線引きがあるから、「自堕落教」的な無制限要求は通らない。
⑤ なぜ憲法改正で宗教禁止は危険か?
宗教の禁止は、個人の精神活動を国家が強制的に統制することを意味し、自由主義社会の根幹を破壊する。
中国のように国家が宗教を禁止・制御すれば、思想統制国家になる。歴史的にも、全体主義や戦争体制と結びつきやすい。
判決は「学校教育の中立性」を壊していない。むしろ、「教育目的を損なわない範囲で、少数者の信教の自由を守る」バランスを取ったものだ。
返信削除「嫌なら来るな」論は、一見シンプル、直感的だが、公共教育の平等性を否定し、結局は「国家に従えない者は教育を諦めろ」という排除論になる。それは民主主義社会の基本理念に反する。